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名古屋地方裁判所 昭和45年(ワ)647号 判決

原告

福井憲二

被告

中嶌正義

ほか一名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告ら、各自原告に対し金八〇万円及びこれに対する昭和四四年一〇月一日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

仮執行宣言。

請求の趣旨に対する答弁(被告ら)

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  交通事故の発生

原告は、昭和四二年八月一七日午後三時頃、普通乗用自動車(以下甲車という)を運転し、名古屋市瑞穂区瑞穂通り一丁目二七番地先の横断歩道手前で停車中、被告中嶌正義(以下被告正義という)運転の普通乗用自動車(以下乙車という)に追突され、頸部捻挫の傷害を受けた。

2  示談の成立

右交通事故につき、昭和四三年九月八日、原告と被告らとの間に、被告正義は原告に対し示談金一〇〇万円の支払義務を認め、これを同月一〇日までに金二〇万円、同年一二月二八日までに金三〇万円、同四四年三月末日までに金二〇万円、同年九月末日までに金三〇万円に分割して支払うこと、被告中嶌禹男(以下被告禹男という)は右債務につき被告正義と連帯して保証すること、示談成立後原告は被告らに対し損害賠償請求訴訟をしない旨の示談が成立した(以下本件示談という)。

3  結論

よつて、原告は被告らに対し、本件交通事故によつて成立した示談金一〇〇万円の請求権があるところ、被告らから右金員のうち既に金二〇万円の支払を受けているので、残額金八〇万円及びこれに対する昭和四四年一〇月一日から支払済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  同第1項の事実中、原告の主張する日時場所において甲車と乙車が衝突し原告が受傷したことは認めるが、その余は争う。

2  同第2項は否認する。

3  同第3項中、被告らが原告に対し金二〇万円を支払つたことは認めるが、その余は否認する。

三  抗弁(詐欺・強迫)

被告らが本件示談に応じたのは、原告の代理人である訴外福井巴(以下訴外巴という)が被告らを欺罔及び強迫したためである。すなわち原告は、その受傷の程度が軽微で本件示談当時既に全治し、しかも被告正義の使用者である株式会社北京堂から甲車の修理代金として金一一万二、〇〇〇円を受領し、さらに右訴外会社代表者の森下圭二(以下訴外森下という)との間で同人が原告に対し慰藉料等の損害として金七三万円を支払う旨の示談を成立させて右金員を受領して本件交通事故に基づく損害を一切解決していたにもかかわらず、原告の弟にあたる訴外巴と共謀して被告らから損害金を騙取しようと企て、原告と訴外森下との間の示談成立の翌日、訴外巴が武藤忠弘とともに突然被告ら方を訪れ、被告らに対し、原告と訴外森下との間で成立した示談を秘したうえ「なぜ損害を払わないのか。金を出さなければお前を連れて行き、ただで何年でも働かせてやる。はつきりしなければドラム缶にセメントと一緒に詰めこんで名古屋港へほうり込んでやるぞ」などと怒号して損害金の支払の請求をなしたので、被告らは、恐怖の余りしかも原告と訴外森下との間の示談を知らないまま(もし知つていれば示談に応じなかつた)訴外巴の要求どおりの金員を支払う旨を約したものである。

よつて被告らは、昭和四五年六月一五日の本件口頭弁論期日において民法九六条に基づき本件示談の取消の意思表示をなした。

四  抗弁に対する認否

抗弁はすべて否認する。

本件示談交渉は、昼間被告ら方でしかも被告らはじめその親族らが同席または隣室にいたときになされたものであり、かつ被告らは本件示談後に第一回目の分割金二〇万円を異議を留めず支払つている。したがつて被告らが訴外巴の態度に恐怖を感じたものとはいい難い(もし恐怖を感じていたならば、直ちに救済を求めることもまた金二〇万円の支払を拒否することもできた筈である)。

また原告と訴外森下との間の示談は、本件交通事故に基づく損害賠償の全部についてなされたものではなく、その一部についてのみなされたものであるから、被告正義の負担分を除外している。したがつて原告は、被告らに対し、原告と訴外森下との間に成立した示談を告知する義務がないから、たとえこれを秘していたとしても、被告らを欺罔したものといえない。

第三証拠〔略〕

理由

一  昭和四二年八月一七日午後三時頃名古屋市瑞穂区瑞穂通り一丁目二七番地において甲車と乙車が衝突し、原告が負傷したことは当事者間に争いがない。そして〔証拠略〕によると、右交通事故につき、原告と被告らとの間で、原告主張の示談が成立したことが認められる。

二  そこで被告ら主張の抗弁について判断するに、〔証拠略〕を総合すると、以下の事実が認められる。

1  原告は、甲車を運転して進行中、横断歩道上の歩行者を発見したので停止したところ、甲車との間隔を約五メートルに保ちながら時速約三〇キロメートルの速度で追従して来た乙車に追突された。そして事故当日、現場近くの高木病院で治療を受けたところ、二週間の安静治療を要する鞭打症と診断され、昭和四二年八月一七日から同年一〇月一一日までの間同病院に通院して治療を受けたが(実通院日数四六日、治療費金五万四、四四〇円)、症状が軽快しなかつたので、その後は名古屋市立大学病院で通院治療を続け、本件示談当時も同病院に通院中であつた(なお原告は、事故に遭つてから約三年間に四五八回通院したが、結局自賠法施行令別表等級の第一二級に相当する後遺障害が残り、また治療費として合計金一六万〇、五九六円を支出した)。そして通院にはタクシーを利用し、本件示談当時合計金一一万一、五七〇円を要した。ところで原告は、本件事故当時妻及び妻の母ほか二名の従業員を使用して製本業を営んでいたが、本件事故のため、事故後約一年間は思うように稼働できなかつた(もつとも原告の休業期間中も原告の妻らによつて右営業は営まれていた)。

2  本件事故によつて損害を蒙つた原告は、原告の義弟にあたる訴外巴に対し、治療費を記載したメモを示しながら、治癒までに約二年間の治療を要する見込みであるが、その当時既に支払済の治療費、タクシー代のほか休業補償費についての示談交渉を依頼した。そこでまず訴外巴は、乙車を運転していた被告正義の使用者である訴外株式会社北京堂の代表者(訴外森下)との間でその交渉をはじめ、森下からとりあえず本件事故から一か月後の同年九月一六日に金九万円を、同月二〇日に金一一万二、〇〇〇円(但し甲車の修理代金)を受領し、さらに森下に対し本件事故の示談金として金七五〇万円を支払うよう要求したが、同人(職業外科医)が原告の傷害の程度と比較して右金額が多額に過ぎるとしてこれを拒否したので、訴外巴のほうから要求金額を漸次下げ、同年一一月頃には示談金として金三八〇万円の支払を要求するようになり、結局、事故が発生してから約一年後の昭和四三年九月七日、訴外森下が原告に対し金七三万円を支払う旨の示談が成立し、同日右金員が支払われた。なお原告と訴外森下との間で成立した示談書には「中嶌正義の雇主である株式会社北京堂社長森下圭二は同義上責任において被害者福井憲二に対し損害賠償の一部として金七拾参萬円也を賠償する」旨記載されていた(北京堂は昭和四二年一二月四日解散していたので、当時の代表者であつた訴外森下が示談の当事者となつた)。また原告は、本件示談当時、右金員のほか自賠責保険金五〇万円を受領していた。

3  次いで訴外巴は、被告正義と示談交渉をするため、友人の武藤忠弘とともに、原告と訴外森下との示談成立の翌日の午前一〇時頃、松本市の同被告方に赴いたところ(同被告は、昭和四二年八月末頃北京堂を退職し、松本市の実家で働いていた)、同被告が不在だつたので、同被告の父である被告禹男に対し被告正義を帰宅させることを要求した。そこで被告禹男は、被告正義を同行するため、同被告の勤務先に赴いたが、その間訴外巴らは、被告ら方で食事のもてなしを受けた後、食器をはしで叩いたり、食卓の上に足をのせたりしながら、「いつまで待たせるんだ。何やつてんだ。」などと被告らの帰宅の遅いことに立腹していたところ、同日午後一時頃被告らが帰宅した。するといきなり訴外巴ら(主として訴外巴)は、被告らを前にして被告正義に向つて「俺の顔をおぼえているか。おめえの態度は何だ。何にも言つて来ねえじやないか。これからどうしてくれるんだよ。」と言つたところ、同被告が訴外巴の突然の来訪に驚き何ら返答せずにいると、ますます立腹し、原告の症状が思わしくなく本件示談当時名古屋市立大学病院に通院治療中であることを話しながらさらに「事故をおこしたきりでおめえさん逃げてる。会社の方へ行つたつて会社はつぶれてないし、おめえさんから取るよりしようがないからおめえさんのところへ来たんだ。」「おめえみたいな分からん者は人間としてたたき直してやらなきやいけねえ。払えないなら連れて帰る。青物市場でただで働かす。それでいけなきやドラムかんへ詰めて名古屋港へ放り込んでもいいんだ。」などと申し向けた。そのとき、被告らは、これまで本件事故について示談交渉を受けたことはなく、いずれは具体的金額を提示しなければならないものと考えてはいたものの、今ここで右巴の要求を拒絶すれば巴のいうように正義の身に如何なる危害が加えられるかもしれないと畏怖し、また隣室でこの様子を窺つていた被告正義の姉妹らも正義が名古屋へ連れて行かれれば殺されるかもしれないと心配して、被告禹男に対し直ぐにでも示談に応ずるよう懇願したこともあつて、被告らは右巴の要求に応ずるより仕方がないと観念し、被告禹男のほうから示談金として金五万円を支払うことを提案した。ところが訴外巴らは「子供の使いじやあるまいし、そんなもんで帰れない。」といつて右提案を拒否し、同被告をして示談金額を金一〇万円、一五万円などと除々に釣り上げさせるとともに結局金一〇〇万円を支払うよう要求した。同被告は、被告正義の責任によつて本件事故が発生したものであるから、若干の金額を支払わなければ問題解決にならないと予想していたものの、右巴の要求額は余りにも予想外に多額であり、しかもその当時がんで入院していた被告禹男の妻の治療費の支払に多額の金員を要するため右要求金額を支払える見込みがなかつたが、もしこの要求に応じなければ前記のとおり正義の身に如何なる危害が加えられるかもしれないと考え、同日午後三時頃やむなく原告の主張する内容の示談に承諾した。

4  本件示談後の昭和四三年九月一三日、被告らは原告に対し第一回目の分割金二〇万円を支払つたが、前記のように被告禹男の妻の治療費を支払つたため、残余の示談金が支払えなくなつたので、交通相談所で示談金の支払について相談したところ、本件事故については被告正義の使用者にも責任がある旨説明を受けたので、同年一二月頃、訴外森下方へ赴いたところ、同人から前記のように示談が成立しているので同被告には損害賠償支払義務がないと言われ、爾後示談金を支払うことを中止した。

以上の事実が認められる。そして、右認定を左右するに足る証拠はない。

これらの事実関係からみると、森下と原告との間における前記示談は原告の本件事故による損害の全部につき加害者側の責任との関係で一切を解決したものとは認められない。そして、直接の加害者である被告正義が本件事故における責任について積極的な態度を事前に示さなかつたことについていささか遺憾の点がなかつたとはいえない。

したがつて、右森下との示談の成立によつても原告の被告正義に対する損害賠償請求権はなお留保されているものと思われる。

しかしながら、右請求権はいわば未確定な権利で具体的に何ら確定したものではない。被害者側の心情として示談交渉の際ある程度執拗な態度に出たり相手方に不快の念を与える言動に出ることも止むを得ない場合があることは理解できるが、本件のように具体的に確定しない権利の行使による示談交渉に当り、訴外巴が損害算定の資料を全く呈示せず、しかも損害の一部について森下から相当の填補を受けているにもかかわらずこれを敢えて秘匿したまま前記のような暴言をはいて被告らを畏怖させ、被告らの提示した金額を大幅に上回る金額を強要していることは、権利行使の手段、方法としてきわめて妥当性を欠くばかりでなく、被告らの意思決定の自由を侵害し同人らを強迫したものと認めるに十分である。

したがつて、本件示談が原告代理人訴外巴の強迫によつて成立したとの被告らの主張は理由がある。

そして被告らが、本件示談の取消の意思表示をしたことは、記録上明らかである。

四  よつて原告の本訴請求は、理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 至勢忠一 熊田士郎 打越康雄)

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